PROLOGUE

ヤスダが光っていた頃 双葉社『サッカー批評』18・20号掲載 <ヤスダが光っていた頃>より転載 文●河崎三行

手に取ると、贅沢に革が奢られて、縫製もとてもシッカリしている。
熟練の職人による仕事だ。
現在のスポーツ店では、まずお目にかかれない上質のスパイクだ。
——若い頃は、憧れの名選手と同じシューズを履きたい、と渇望していた。
同じ製品は無理だとしても、せめてブランドは一緒にしたい。
下手糞なくせに、格好ばかりにこだわっていた。
なぜ、自分の足にあった、プレーしやすい靴を、とは思わなかったのだろう。
すぐ身近に、とても安くて履きやすいサッカーシューズがあったのに。

双葉社 『サッカー批評』

1988年、経営陣を一新し「ヤスダ」→「クリックスヤスダ」へ。
2002年、自国開催W杯の1ヶ月前に自己破産申請。
今回の復活(2007)は75年の歴史の中で「3度目のスタート」となります。

前編(18号掲載分)

『ヤスダ』が消えた——ことをまだ知らない人々は、意外に多いのではないだろうか。
2002(平成14)年4月30日、株式会社クリックスヤスダは東京地裁に自己破産を申請、5月8日に破産宣告を受けた。
しかしこのニュースはワールドカップ直前の喧騒の中にあったメディアでは、ほぼ黙殺された。
昨今ありふれた企業倒産のひとつ、と関心さえ持たれなかった。70年以上の長きに渡って日本のサッカー選手の足元を支え続けたスパイクの老舗は、ひっそりと市場から姿を消したのである。

後編(20号掲載分)

第18号に掲載したヤスダの物語のつづきをお届けしよう。
1932(昭和7)年、安田重春によって東京小石川に設立された「安田靴店」は、上質のサッカーシューズを作る店として、関東のサッカーマンたちに知られる存在となる。戦後の52(昭和27)年には名称を「(株)安田」に改め、販売を全国の問屋や小売店を通して行うかたちへ移行、長男の一男が引き継いだ60(昭和35)年からは量産を開始し、スパイク日本一の座を不動のものとした。ところが70年代に入ると、海外からアディダス、プーマが輸入販売されるようになり、ヤスダの地位を脅かしはじめたのだった……。


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